テレビ東京で放送されている番組「隅田川花火大会」2023を無料視聴する方法について紹介していきます。2022特別編など過去放送分の再放送の情報や、無料動画や見逃し配信はTVer(ティーバー)で配信されるのかなど、昨今はテレビをリアルタイムで視聴するよりもスマホやテレビ、パソコンで視聴したいですよね?
YouTube(ユーチューブ)やbilibili(ビリビリ)、Dailymotion(デイリーモーション)、9tsu、miomio、Pandora(パンドラ)以外の「隅田川花火大会」の動画配信についてなのですが、現時点では動画配信サービスU-NEXTで配信される可能性があります。
Contents
「隅田川花火大会」2023.7.29放送分
■江戸時代からの歴史と伝統<隅田川花火大会>がコロナ禍による中止から<4年ぶりの大復活>!■今夜…豪華<2万発の花火>が夜空に上がる■大迫力!完全独占生中継
▼第一会場・第二会場から同時に打ち上がる計2万発の花火をヘリコプターや隅田川に浮かぶ屋形船などから20台以上のカメラによる迫力ある映像でお届けします▼恒例の花火コンクールも4年ぶりに開催!精鋭10社による技術を極めた花火が競い合う▼花火が見えるうらやましいご自宅に突撃訪問▼隅田川花火中継を知り尽くすテレ東OB佐久間宣行の生配信も!※荒天時番組内容に変更あり
「隅田川花火大会」の出演者
【司会】高橋英樹、角谷暁子(テレビ東京アナウンサー)
ゲスト
【ゲスト】池田瑛紗(乃木坂46)、梅澤美波(乃木坂46)、中村隼人、三浦翔平、観月ありさ ※五十音順
【屋形船】東貴博、田中瞳(テレビ東京アナウンサー)
【市民観覧席】春日俊彰(オードリー)
【街中リポート】高橋真麻
【裏!生配信】佐久間宣行、酒井健太(アルコ&ピース)
関連情報
【公式HP】
https://www.tv-tokyo.co.jp/hanabi2023/
【公式Twitter】
公式アカウント(@tvtokyo_hanabi)
https://twitter.com/tvtokyo_hanabi
特別企画
【乃木坂・柴田ドラマ配信中】
柴田柚菜(乃木坂46)出演オリジナルドラマ「上を向いて」が配信中!
【配信】
TVer、ネットでテレ東、YouTube(テレビ東京公式)
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TVerでの動画見逃し配信は?
TVerは、在京民放キー局5社(日本テレビ、テレビ朝日、TBSテレビ、テレビ東京、フジテレビ)と、在阪民放5社(MBS毎日放送、ABCテレビ、関西テレビ、読売テレビ、テレビ大阪)、広告代理店4社(電通、博報堂DYMP、ADK、東急エージェンシー)が共同出資した株式会社TVer(旧・株式会社プレゼントキャスト)が運営するOTTサービス。
海賊版コンテンツ・不正コピーの防止・対抗を目的として2015年10月26日にサービスが開始された。スマートフォンやタブレット向けのTVer専用アプリやPC上のウェブブラウザを利用して、民放テレビ局が提供するテレビ番組や動画コンテンツを視聴することができる。
在京民放5社は、当サービスの開始以前から独自の見逃し配信サービスをそれぞれ運営しているが、「TVer」はこれらを一元的に集約させたポータルサービスとしての役割も担う。
インフラにブライトコーブの動画配信プラットフォームBrightcove Video Cloudと機械学習を使ったエンコード技術Context Aware Encodingを採用している。
隅田川花火大会はTVerで配信される?
配信は、放映から1週間程度の期間(次回放送がそれを超える場合は、遅くとも次回放送開始前まで)行われ、従来の放送と同じようにコマーシャルが挿入される形式となっている。テレビジョン放送とネット配信とで権利処理が大幅に異なるため、それらの関係で配信対象外となる放送回もあるほか、番組出演者が配信期間中に不祥事を起こした場合も即座に配信終了となるが、当該パートを削除された上で再開されることもある。また、一部の2時間以上に拡大された特別番組など、長時間番組は複数のパートやコーナー別に分けて配信されることもある。
サービス開始当初は、全国ネットでの放送番組(準キー局制作番組や系列BSデジタル局の番組を含む)を中心とした番組ラインナップであったが、2016年秋から2018年春までにかけて全ての準キー局系の見逃し配信サービスが参画し、番組の直接配信を開始したことにより、放送エリアが制限されているローカル番組の視聴も可能となった。これ以降、準キー局以外の系列局が制作したローカル番組も順次配信が行われている。
開始当初の配信番組はドラマ作品等が中心だったが、年を追うごとにバラエティ・アニメ・料理番組等ラインナップを増やし、2023年1月現在ではゴールデンタイム・プライムタイム等の番組を中心に約400番組以上がラインナップされている。また、ドラマ・アニメ作品等では本サービス開始前に放送された作品(概ね1950年代から2010年代までの物)や、オリジナル作品等が配信されることもある。ニュース・情報番組等については未だに、基本的に配信していないが、東日本大震災やSDGsなどのキャンペーン企画実施時に例外として配信する場合がある。ただし、全国ネットの番組であっても権利処理が難しいもの(映画番組等)や、製作側の事情から当サービスで配信が行われない番組もある。
配信番組は基本的に主音声(第1音声)のみが配信される。そのため、音声多重放送且つ副音声(第2音声以上)にて、2か国語放送や解説放送や副音声付放送等が行われた場合は副音声版を別途配信することもある。
「TVer」ではradiko(プレミアムを除く)とは異なり、配信番組の視聴にあたって国内でのエリア制限は施されていないことから、配信対象番組で放送枠の移動がある場合は、必ず放送時間のところに「一部地域をのぞく」の表記が入る。これは系列局が無い地域かクロスネット局で同時ネットの対象から外れた番組において遅れネットか非ネットの時があるため。一方、海外での利用はできず、この点は同様である。
2019年8月26日には、公共放送である日本放送協会(NHK)が制作する番組についても配信が開始された。広告放送が禁止されている同協会の性質上、NHKの番組をTVerで視聴する際にはコマーシャルは流されず、代わりに同局の番組宣伝などが流れる。なお、TVerでのNHKの番組視聴は受信契約の対象外であると同協会広報局が回答している。
2020年からは独立放送局も参入し、同年10月からはテレビ神奈川(tvk)、翌2021年4月からは群馬テレビ、同年7月からはテレビ埼玉(テレ玉)、2022年2月からは東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)、3月からは千葉テレビ放送(チバテレ)、4月からはワールド・ハイビジョン・チャンネル(BS12 トゥエルビ)制作番組の配信をそれぞれ開始した。
※隅田川花火大会はTVerでは配信されています。
隅田川花火大会の出演者情報
「高橋英樹」について
「高橋英樹」は、日本の俳優、タレント、司会者、会社役員。千葉県木更津市出身。身長181cm、体重80kg、血液型はB型。所属事務所はアイウエオ企画を経て、2019年2月1日から長女の真麻と共にグレープカンパニーに所属。また、アイウエオ企画の取締役も兼任。愛称は、ナイスガイ。この愛称は、1962年に週刊平凡誌上で公募を行った上で決定された(応募総数14,532通のうち3,826通と圧倒的多数を占めたのが「ナイスガイ」だった)。
妻は元女優でアイウエオ企画取締役でもある小林亜紀子。長女はフリーアナウンサーの高橋真麻。
生い立ち - 日活時代
父親は教職者で、高校の校長を務めた。兄弟は姉二人(9歳上と8歳上)に6歳上の兄。
船橋市立二宮小学校、千葉市立検見川小学校、千葉市立緑町中学校を経て、私立市川高等学校入学。
1961年、高校在学中に日活ニューフェース第5期として日活株式会社に入社。第5期の同期には、中尾彬や竜崎勝がいる。同年の映画『高原児』に端役でデビュー。
1962年(昭和37年)、撮影所内で事故死した赤木圭一郎の代役として日活より『激流に生きる男』で主演格となる。大部屋(仕出し)を経験せずにいきなり役付きで出演するという、当時の新人俳優としては異例のデビューとなった。
1962年に日本大学芸術学部入学(翌年に中退)。
1963年(昭和38年)、『伊豆の踊子』では吉永小百合の相手役を務める。この年から数年間、『男の紋章』シリーズなどの任侠映画の主演スターとして活躍するようになり、淡島千景の事務所に所属。
1966年(昭和41年)には青春映画『けんかえれじい』の主役・南部麒六を演じた。しかし、映画界の斜陽、観客数減少に歯止めがかからず、日活は1971年(昭和46年)秋に低予算のポルノ映画制作に路線変更が決定する。これを機に高橋は日活を離れ、本格的にテレビへ活躍の場を移す。
1968年(昭和43年)、NHK大河ドラマ『竜馬がゆく』で土佐勤王党の盟主・武市半平太役で時代劇初出演。及び、1970年(昭和45年)の『旗本退屈男』(フジテレビ系)にも主演。これらを皮切りに1970年代から1990年代前半にかけて時代劇俳優としての地位を確立する。
1973年(昭和48年)、第11回ゴールデン・アロー賞大賞を受賞。同年、松竹作品の映画『宮本武蔵』(監督:加藤泰)に主演。以降も『狼よ落日を斬れ』で主演するなど、原点である映画への思いは持ち続けていたが1976年(昭和51年)以降は映画から離れている。
1976年(昭和51年)の『桃太郎侍』(日本テレビ系)、1982年(昭和57年)の『遠山の金さん』(テレビ朝日系)1987年(昭和62年)からは『三匹が斬る!』(テレビ朝日系)に主演し、いずれも自身の代表作の1つとなる。
その後はテレビ・舞台を中心に活動し、時代劇のみならず現代劇作品やバラエティ番組への出演など多岐にわたる。
2010年以降
2010年(平成22年)6月に、総務省から「地デジ化応援隊」隊員のメンバーに選ばれた。他のメンバー5人とともに、アナログテレビジョン放送終了までの1年間、ボランティアの形でCMや地デジ推進イベントに出演、アナログ放送終了に向け、地デジへの切り替えを呼び掛けた。
2011年(平成23年)、芸能生活50周年の節目にアニメーション作品『劇場版ポケットモンスター ベストウイッシュ ビクティニと黒き英雄 ゼクロム・白き英雄 レシラム』で、ポケモン・ゼクロム役としてアニメの声優を初担当。同時に、声の出演ながら36年ぶりに映画に復帰することともなった。
2012年(平成24年)4月、神奈川県横浜市に本社を置くブリーズベイホテルの名誉支配人に就任。
2013年(平成25年)3月16日、東京都台東区立浅草公会堂で行われた『第29回浅草芸能大賞授賞式』および『第30回浅草名人会』並びに平成24年度『スターの手型』顕彰式に出席。第29回浅草演芸大賞・大賞を受賞。
2014年(平成25年)1月2日にテレビ東京で放送された新春ワイド時代劇『影武者徳川家康』で石田三成の家臣、島左近役で出演。高橋は1998年(平成10年)4月 - 7月、テレビ朝日で同作品が連続ドラマとして放送された際、主人公である徳川家康と世良田二郎三郎の二役を演じている。ちなみにこの時の島左近役は寺田農だった。
2019年1月31日付で娘の真麻と共にアイウエオ企画によるマネジメント契約を終了、翌2月1日よりグレープカンパニーに移籍。移籍の理由として「真麻の結婚を機に私達二人の仕事の面倒をずっと見てくれていた奥さんに好きな事ができる時間を少しプレゼントしようと言う事になりました」と明かしている。
時代劇俳優として
大河ドラマ
1968年(昭和43年)、NHK大河ドラマ司馬遼太郎原作の『竜馬がゆく』で土佐勤王党の盟主・武市半平太を演じる。これが初の時代劇出演となり、以後高橋は大河ドラマには欠かせないキャストとなる。特に司馬原作の作品では重要な役柄を演じており、司馬の存命中に大河ドラマとなった作品にはすべて出演している。
その後大河ドラマでは、1973年(昭和48年)の『国盗り物語』では織田信長を演じている(他の作品を含めて織田信長役について詳しくは後述)。1977年(昭和52年)の『花神』では司馬の肝煎りで河井継之助を、1990年(平成2年)の『翔ぶが如く』では島津久光を演して芸域を広げている。また、2005年の宮尾登美子原作『義経』では奥州藤原氏の当主藤原秀衡を演じ、2008年の同じく宮尾登美子原作『篤姫』では久光の兄島津斉彬を演じた。2015年の『花燃ゆ』では、島津斉彬と次期将軍問題で対立していた井伊直弼を演じる。
織田信長役について
先述の1973年の『国盗り物語』ではストーリー後半の主役である織田信長を演じ、当たり役となる。「自分は信長の生まれかわり」、「信長を演じる時は、台詞を覚えなくても自然と出てくる時がある」と公言するほど入れこみ、信長役が自らにとってターニングポイントだった事を認めている。
『国盗り物語』の後、しばらくは高橋に信長の強烈なイメージがついてまわり、イメージの払拭、また様々な経験を積むため、しばらくの間は数多く寄せられた信長役での出演依頼を断っていた。しかし、19年を経た1992年(平成4年)の正月時代劇『戦国最後の勝利者・徳川家康』(テレビ朝日系)で信長役のオファーを受け、1994年(平成6年)にはテレビ東京系『12時間超ワイドドラマ 織田信長』に主演、年輪を重ねたうえでの新たな信長像に挑んでいる。
他の時代劇での代表作
それまでに任侠映画には多く出演したが、映画では1970年に『土忍記 風の天狗』に主演して時代劇初出演、民放では数々の時代劇に主演。1970年(昭和45年)の『旗本退屈男』(フジテレビ系)を皮切りに1970年代から1990年代前半にかけて時代劇俳優としての地位を確立する。
『桃太郎侍』では主役を務めるも、当初の設定は「基本的に人を斬らず、諭して改心させる」というもので、長屋の喧嘩を諌めるような人情話もあり、放映当初の視聴率は芳しくなかった。ある日主題歌を歌っていた三波春夫とゴルフをしていた際、三波から「桃太郎、お地味ですねえ。もっと時代劇はすっきりしないと。高橋さんはお派手がお似合いですよ。」と言われた。これをきっかけに、高橋の提案でそれまで原作に沿った“峰打ち”だったものを、大人数を斬り捨てる派手な殺陣に変え、クライマックスの衣装を黒の着流しから三波ばりの絵柄の入った派手なものにした。さらに登場の際には般若の面を被り、高倉健の任侠映画からヒントを得て「ひとつ、人の世の生き血を啜り…」と、殺陣のさなかに口上を述べるように変えたところ、人気が急上昇し、その後番組は5年間にわたり継続された。
『遠山の金さん』では、「刀を持たない町人(に扮した遠山金四郎)の武器」として、濡らした手拭いを使った殺陣が人気となった。また『三匹が斬る!』では、役所広司、春風亭小朝とのコンビネーションが人気となり、1995年(平成7年)まで7シリーズが制作されている。高橋は6作目まで、リーダー格の「矢坂平四郎」役を演じた。
その他の時代劇
テレビ東京系の正月恒例の新春ワイド時代劇では、同番組の前身である『12時間超ワイドドラマ』と銘うたれていた1991年に『次郎長三国志』で初めて主演、1994年(平成6年)に上記の信長で再び主演している。
その後、2007年(平成19年)『忠臣蔵 瑤泉院の陰謀』では柳沢吉保を、また2009年(平成21年)には『寧々〜おんな太閤記』で徳川家康、さらに2010年(平成22年)には『柳生武芸帳』で柳生宗矩を演じている。
1973年(昭和48年)の『ぶらり信兵衛 道場破り』(原作・山本周五郎、フジテレビ系)のような軽妙な人情劇や、近年では2004年(平成16年)〜2007年(平成19年)の『慶次郎縁側日記』(NHK)など、殺陣よりも人間ドラマや推理劇をメインとした作品にも出演。
2009年(平成21年)には『坂の上の雲』でも児玉源太郎役を、また2012年(平成24年)2月19日放送の『必殺仕事人2012』(ABC - テレビ朝日系)では、人生初の悪役を演じるなど近年は主演以外でも活躍している。
また、既存の時代劇に懐疑的・批判的な一面もあり、「それなりのキャリアを積んだからといって “黄門様” になろうとは思わない」とも発言している。
現代劇でも活躍
現代劇作品にも、1968年(昭和43年)の『かみなり三代』(日本テレビ系)以降、1974年(昭和49年)の『6羽のかもめ』(フジテレビ系)、1979年(昭和54年)〜1981年(昭和56年)の『判決』(テレビ朝日系)など、時代劇作品と並行して数多く出演を続けており、近年は2時間サスペンスにも主演している。
2時間ドラマでは、特に1990年(平成2年)に初めて演じた西村京太郎作品の十津川警部役が知られている。2000年(平成12年)からはそれまでテレビ朝日系「土曜ワイド劇場」で十津川を演じていた三橋達也から役を引き継いた。毎年新作が制作され、十津川を演じた本数は交代後33作に達している《2016年(平成28年)末現在》。
バラエティの常連
1986年の『ドキド欽ちゃんスピリッツ!!』へのレギュラー出演以来、様々なバラエティ番組やトーク番組にレギュラーまたはゲストとして出演している。きっかけの一つは、一人娘の真麻が小学生だった当時『とんねるずのみなさんのおかげです』の大ファンだったことから当番組のコントに出演した。また、当時自分の出演していた時代劇のポスターを見ていた小学生の子どもが発した「このおじさん、誰だろう?」また道を歩いていた時に女子高生から「今の人誰だっけ?」との言葉もきっかけだと語っている。
上記のとんねるずの番組のコントでは、シャネルやルイ・ヴィトンの柄をあしらったスーツを着た嫌味な大物俳優を演じている。英樹自身もこの「ステレオタイプな大物俳優のパロディ」というコミカルな役どころを嬉々として演じたという。当時『とんねるずのオールナイトニッポン』で語られたところによると、その返礼として、とんねるずから真麻宛の「サイン色紙」が届けられたという。後年、真麻がフジテレビアナウンサーとなって以降は、番組のコーナーレギュラーに起用(「きたなトラン」や「モジモジ君HYPER」など)され、高橋親子との交友は続いている。
また、真麻が中学生の頃、SMAPの中居正広のファンになり、クラスで人気だったSMAPと父との共演を望み「どうしてパパはSMAPと共演できないの?」と言われた。これに奮起した英樹は自らABCのスタッフと出演交渉し、1995年(平成7年)に『キスした?SMAP』にゲスト出演している(7月8日放送分。ただし、この回に中居は出演していなかった)。
人物
下戸のため酒は嗜まないが、日活の若手スターとして活躍していた頃から、月20日間は銀座のクラブや京都に通い、石原裕次郎、小林旭といった先輩俳優にならって、後輩たちに奢りまくっていた。しかし、そうした「スター然」とした放蕩三昧の生活で、飲み代の支払いは全て「ツケ」で会社からの前借りを繰り返し、20代にして借金が当時の金額で3500万円ほどに膨れ上がっていた。高橋自身、結婚後にこの事実を知るが、妻や妻の両親・家族は「借金も財産、信用のうち」とこれを寛大に受け入れる。その後、高橋は夜遊びをやめ、年間70本に及ぶテレビの仕事をこなし、2-6年ほどでこの借金を完済している。20代の頃、映画『伊豆の踊子』で共演した女優・浪花千栄子から言われた「あんた、変わりはったわね」の一言も、その後の猛省を促すきっかけになった。
「趣味は家族」と公言するほど妻子を大切にし、唯一ともいえる趣味はゴルフ程度だったが、2003年(平成15年)7月〜9月に放送された『趣味悠々 鶴太郎流墨彩画塾』(NHK Eテレ)へ出演し、講師の片岡鶴太郎から手ほどきを受けた事をきっかけに日本画と書道を始め、各所で個展を開催、自身の公式サイトでも書道作品の一部を公開している。
若い頃は見かけに寄らず虚弱で、風邪をひきやすかった。当初は乾布摩擦を励行していたが、ある日、本で読んだ「たわしで身体を擦る」という健康法に興味を持ち、これを取り入れている。身体前面は自らが、背中は付き人に擦らせている。それが済むと、今度は両手で顔を思い切り100回ほど叩いて刺激を与えている。以来「亀の子たわし」を愛用し、仕事に入る直前には「気合を入れる」「1回血液を全身に廻らせて新たな役作りに入る」という意味合いで、この健康法を30年以上続けており、すっかり風邪をひかなくなったと語っている。
一方で、テレビドラマでは『船長シリーズ』(土曜ワイド劇場)などで鉄道連絡船や長距離フェリーといった大型旅客船の船長役を演じているが、高橋自身は海上の乗り物に弱く、船酔いしやすい。また、毎年春先になると、花粉症に悩まされるとのこと。
59歳の頃には原因不明の“めまい”の症状に襲われ、以来しばらくの間、病院からテレビ局に直行するという生活を余儀なくされている。そんな時に出会ったのが同年代の芸術家である、宮崎県在住のガラス作家、黒木国昭と洋画家でフレスコ画の国内第一人者である絹谷幸二で、二人の制作現場を見せてもらう機会があり、そこで間近に作品に取り組む強いエネルギーに接する中で、いつしか症状も和らいでいったという。以来「海外旅行先でも真っ先に訪れるのは美術館。エネルギーをもらいに。」と語るほど、絵画や美術作品を愛好している。
雑誌歴史人に、「高橋英樹の歴史通」を掲載しており、それらをまとめたものが、「高橋英樹のおもしろ日本史」として、出版される。この本により、第2回野村胡堂文学賞特別賞を受賞する。
殺陣(たて)
時代劇において殺陣の手を覚える速さとその手数の多さには人並外れた能力があり、殺陣の技術は時代劇スターの中でも群を抜く。時代劇特番やバラエティでその技を披露することもしばしば。
また、単に「斬る」だけでなく、納刀のフォルムや光らせ方など「刀の魅せ方」にも多くの技術を持つ。殺陣にはこだわりがあり、殺陣を披露する機会には殺陣のパートナーとして信頼を置く峰蘭太郎を指名する事が多い。
家族
妻・美恵子(元女優・小林亜紀子)
テレビ時代劇『おらんだ左近事件帖』で共演したのが縁で、1974年(昭和49年)3月15日に結婚。初対面の時には「頭に結婚の文字が浮かんだ」と言うほど強く魅かれたと語っている。しかし最初は「兄妹のような感情だった」ということで、交際に至るまで、当初は距離のとり方に戸惑ったとのこと。
結婚後、真麻が生まれるまでに夫妻は3度の流産を経験しており、真麻は待望の子供だった。高橋自身、2ヶ月の休暇をとり妊娠初期の妻を支えるなど万全を期していたが、この妊娠期間も4ヶ月目の定期検診で一時心音が途絶えるというアクシデントに見舞われている。医師から「あきらめたほうがいい」と、母体への影響を考え掻爬手術を勧められるが、高橋は「1週間待って欲しい」と懇願。その間、「御利益がある」とされる神社仏閣を巡り、胎児の無事を祈願、1週間後、奇跡的に無事が確認されるという出来事を体験している。誕生時の取材では「妻が流産で自信をなくしていたので、無事出産して自信を取り戻せたのが一番良かったと思う」とねぎらいのコメントを出している。
長女・真麻(元フジテレビアナウンサー、現フリーアナウンサー)
1981年10月9日生 -
東京女子大学文理学部卒業後、アナウンサーとしてフジテレビに入社。娘の就職について高橋は「大学入学直後に『表現する仕事をしたい』と言うんですよ。反対はしませんでした。娘の選んだ仕事は何でも協力するつもりでした。」としており、結婚については「本人任せです。『この人と一生を』と決めたら…。でも、どれを見ても私が気に入るわけはない」と語っている。
アナウンサー時代は「みなさんのおかげでした」の「モジモジくんHYPER」にて真麻に対してとんねるずをはじめとした共演者に女子アナにも関わらず、一斗缶で殴られる、おたまでお湯をかけられる、顔面にパイを投げられすりつけられるなどの女芸人でも辛い仕事をさせられていたが高橋は夫婦揃って「真麻が活かされていてありがとうございます。」「もっとやってください。」と手紙を書いていた。これは、親の七光りやコネだと言われ辛い思いをしていた真麻が、番組に出る事によって自信がついたためであり、決して嫌味ではなく、本心から思っていたことといい、楽屋に差し入れもしていた。
待望の子供だったため、高橋夫妻はとても可愛がった。特に出生前に心音が弱まり医師に諦めるよう言われたことから、食べる事は制限をかけなかった。真麻自身も良く食べる子供だった事と、怪我をして病気になる心配から運動をさせないようにしていたため、小学生の頃は肥満児だった。流石に心配になったが、真麻が宝塚やミュージカルに憧れるようになり、声楽や踊りを習わせた結果、もともと痩せ体質なため体型はスリムになったが、大食いとなった。
2013年10月5日放送の特番『歌い継がれる昭和歌謡 この10年でもっとも歌われたカラオケランキングベスト20』(テレビ朝日)で初めて司会者として共演を果たしている。
浅丘ルリ子、石原裕次郎について
浅丘ルリ子からはデビュー当時から公私にわたって指導を受けており、当初は千葉市より電車で調布市の日活撮影所まで通っていた。しかし、石原裕次郎の口利きで調布市の浅丘宅に下宿し、食事を浅丘の母親に作ってもらったりと物心両面で世話になった。このことから浅丘とは今でも実際の姉弟のような関係で、頭が上がらないとのこと。ちなみに『高原児』で浅丘と共演した時は、高橋は弟役にも関わらず、浅丘に「お兄さん役だと思った」と言われている。
石原裕次郎からは、高橋が若い頃「お前は脚が短いから着流し姿で任侠物はどうだ?」とアドバイスを受けたことがある。高橋は、裕次郎のこの助言により短所を逆手に取った思わぬ形で芽が出ることとなり、1963年以降『男の紋章』シリーズなどの任侠映画へ出演する。
二代目 尾上松緑について
『男の紋章』への出演が決まった高橋は18歳の頃から一時、所属事務所の先輩女優である淡島千景と舞台作品で数多くの相手役を演じた二代目 尾上松緑の門弟となる。そこで1年のほぼ半分を松緑一座の舞台で「時代もの」を演じるための着付けや所作、基本動作、日本舞踊など基礎を徹底的に学んでいる。
ちなみに二代目 尾上松緑は、第一回大河ドラマ『花の生涯』で主人公・井伊直弼を演じており、2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』では高橋が同じく井伊直弼を演じている。師匠と同じ役を演じる事について高橋は、「非常に感慨深い」と語っている
エピソード
芸能界入りのきっかけは厳格な父への反発心からで、高校2年生の終わりごろに将来何になりたいかというテーマの作文で「映画俳優になりたい」と書いたほどだった。これを知った父は芸能界入りに猛反対したが、意外にも日活の受験は父の命令で、「これに落ちればあきらめるだろう」と思って高橋が修学旅行に行っていて留守の間に父が応募の書類を送った。この時のことについて「芸能界は安定した収入が保証されてないから親としては心配だったと思います。父からは『芸能界に入るなら勘当だ』と言われました。ただ、日活の試験は父の命令で受けたんです。それでいて、万が一、合格したら勘当だと。矛盾しているようですが、試験に落ちてあきらめさせようとしたんですね。合格後は父とは口をきかずに半勘当状態でした」と語っている。なお、日活のオーディションでは台本を宍戸錠の物真似で演じて見せた。父親は高橋がデビューした翌年の1962年6月に死去。「勘当を解く」という主旨のことを告げられぬままの死であったが、高橋は後に母親から、自分の出演した映画を父親が内緒で映画館に行ってすべて観ていたことを聞かされている。また、「父に反発ばかりしていたけど、今は父の気持ちがわかります。やるべきことをきちんとしないと気が済まない点は父にそっくりなんです」とも語っている。
デビュー翌年の1962年、急遽代役として主役格で映画出演という恵まれた環境での駆け出しだったものの、筋肉質のがっしりとした体型で股下が短く、カメラマンが下から写しても様にならなかった。このことが原因で、アクションや青春ものでは主役がなかなか回って来なかった。日活時代、このような体格からダックスフントとあだ名されていた。時代劇俳優に転向したのは、足を着物で隠せるからと言う理由もあった。またデビュー当時から落ち着いた存在感のあった高橋は、10代ながらも大人びた風貌から実年齢より上の役柄が多かった。
1978年(昭和53年)日本アカデミー賞が創設される際に、同賞の創設に尽力した岡田茂東映社長(当時)に、高橋のそれまでの映画界への貢献から「会員になれ」と言われたが「映画に出ていないからならない」と固辞した。
二代目 尾上松緑の下で日本舞踊などの素養を培って磨いた殺陣には定評があるが、剣道・その他の武道の有段位資格者ではない。これは、『三匹が斬る!』の役づくりために一時期学んでいた小野派一刀流の師範から「あなたが演じようとしているのは“剣の達人”だが、今から学んでも名人にはなれない。例え段位を取得したとしても、太刀捌きがその段位内の範疇に納まってしまうから、逆にあなたは取らない方が良い」とアドバイスされた事がきっかけになっている。時代劇作品が減り、最近は殺陣をやっていないことについて、「本当は殺陣やりたいんですよ。自信あるんです」と話している。
「隅田川花火大会」の番組情報
「隅田川花火大会」は、東京都の隅田川沿い(台東区浅草(右岸)・墨田区向島(左岸)周辺)の河川敷において毎年7月最終土曜日に行われる花火大会である。毎年8月に開催される江戸川区花火大会とともに東京二大花火大会の一つに数えられる。
隅田川花火大会は、江戸時代、隅田川での船遊びが許された納涼花火解禁期間の開始日に、花火師の鍵屋・玉屋が、自身の花火を宣伝する目的で大々的に花火を打ち上げたことに由来する。
創られた「伝承」
この大会の起源として、これまで広く流布していた言説に次のようなものがある。
隅田川花火大会は、大飢饉とコレラの流行によって江戸で多くの死者が出た1732年、8代将軍・徳川吉宗が大川端(現在の隅田川河畔)で催した「川施餓鬼」(死者の霊を弔う法会)に遡る。1733年7月9日(享保18年5月28日)、幕府は前年にならって川施餓鬼とあわせ、慰霊と悪病退散を祈願する目的で、両国の川開きの日に水神祭を実施。その際に花火を打ち上げたのが、現在の花火大会のルーツとされる。
この半ば定説化していた「伝承」は、明治時代中期から昭和初期(1890年代~1930年代)にかけて徐々に創られていったものであり、歴史的事実とはかけ離れている。例えば、コレラの日本国内での流行は、1822(文政5)年に西日本一帯で起きたのが最初であり、1732年に流行したというのは事実に反する。
下に引用した清水晴風の文章は、この「伝承」が形成される途上の1907(明治40)年に書かれたものである。江戸時代の文献には一切登場しない「享保18年」や「死者供養の花火打ち上げ」などといった情報が記載されている一方、大正時代に突如登場する「水神祭」というワードは、まだ見られない。
「両国の夏の納涼花火」 隅田川の夏の風物詩として知られる隅田川花火大会の歴史は、享保18年(1733)5月28日の両国川開きにまで溯る。大飢饉や疫病による死者供養と災厄除去を祈願して、花火師、6代目鍵屋弥兵衛が、花火を打ち上げたのが始まりだった。明治期には11代目鍵屋弥兵衛が、外国から輸入された新しい薬剤を使って赤、青などの発色花火の打ち上げに成功し、また、マニラから持ち帰ったスターマインを、初めて両国川開きで打ち上げた。明治30年(1897)8月には、見物客の重みで木橋の両国橋の欄干が落ち、多くの死傷者が出る大惨事が起きた。この事故を契機に両国橋は旧橋より上流に鉄橋で架けられた。打ち上げ花火、冠菊(しだれ柳)と両国橋(鉄橋)の絵あり。「昔両国の川開きは五月廿八日に限りたるも今は一定の日はなし花火を打上る前警察署の認可を得て後に執行と虽とも此納涼今に至るも東京名物の一なりと定む」と記載あり。50丁表に「江戸一流元祖南京 龍田〇〇ち 男山〇〇〇 むさしの〇〇 安部野らんきく 宮城野乃萩横山町壱丁目 花火せん香かきや弥兵衛」と記載がある花火師、鍵屋弥兵衛の広告あり。
— 清水晴風『東京名物百人一首』1907年8月「両国の夏の納涼花火」より抜粋
萌芽(明治20年代)
時間をかけて少しずつ形作られた、この「伝承」の萌芽は、明治20年代に現れる。1891(明治24)年の新聞記事では、多数の仕掛け花火の打ち上げが始まったのは「凡百六七十余年前」とあり、これに基づけば、1731(享保16)年頃以前に始まったことになる。「伝承」にあるような、1733(享保18)年という具体的な年は、この記事にはなく、また、死者供養と災厄除去を祈願する話も一切なく、隅田川で販売する花火の売り出し広告として川開き花火を始めたと書かれている。
翌年以降も似たような記事が新聞に掲載されるが、始期についての記述はまちまちで、1892(明治25)年の記事では「凡そ二百年前」、1893(明治26)年の記事では「百数十年前」、1896(明治29)年の記事では「明暦〔1655~58年〕以前」と一定していなかった。このように明治20年代の段階では、始期について、享保年間を含む約100年の「誤差」があり、「享保18年」というピンポイントの「設定」はまだ誕生していなかったのである。
「享保18年」の特定(明治30年代)
「享保18年」という具体的な年が現れるのは、明治30年代になってからである。その嚆矢が1903(明治36)年の新聞記事であり、そこには「享保十八年五月旧幕府の免許を得て始めて挙行せし」と記されている。しかし、この記事には、「享保18年」に始まったことを裏付ける根拠は一切示されていない。それにもかかわらず、これ以降、「享保18年」という数字がその真偽を検証されることなく、独り歩きしていく。
ただし、すぐに享保18年説が確固たる地位を得たわけではない。1932(昭和7)年の新聞記事では、「天和二年〔1682年〕川開が始まつてから二百五十年」とあり、主催者がそれを記念して川開きを大々的に催すことにしたと書かれている。主催者が天和2年説を喧伝していることから、1932年の段階では、まだ享保18年説は十分に定着していなかったことが分かる。
「飢饉」への言及(明治40年代)
明治40年代には、上で引用した清水晴風『東京名物百人一首』などのように、「飢饉」との関連性を指摘する記述が登場する。
しかし、「飢饉→死者→慰霊→花火」というストーリーはまだ一般化していなかった。例えば、1911(明治44)年に出版された若月紫蘭『東京年中行事 下巻』には次のように書かれている。
享保十八年、八代将軍吉宗の時である。前年大飢饉の余勢をうけて米価しきりに騰貴し、山陽・西海・四国尤も甚しく、民の餓死するもの九十六万余人に及んだと言うにもかかわらず、漸く太平に慣れ、奢侈の風これより盛んならんとしたる江戸に於ては、この年五月二十八日を以て、今猶江戸名物の名残の一として数えられつつある、隅田川は両国の川開が初めて催されたのである。
— 若月紫蘭『東京年中行事 下巻』(春陽堂、1911年)より抜粋
若月は、飢饉について述べてはいるが、それが川開き(花火打ち上げ)のきっかけになったという書き方はしていない。それどころか、川開きは「奢侈の風」の象徴のように描かれており、慰霊や悪病退散とは正反対のイメージである。
また、若月は、対象地域や死者数等を具体的に示して享保の大飢饉を説明している。これらの内容は『徳川実紀』と完全に一致しており、そこから引用したものと考えられる。若月の文章において、「飢饉」は当時の世相を説明する一要因に過ぎず、「飢饉」と「川開き」との間に直接の結びつきは示されていない。しかし、この『徳川実紀』から引かれた詳細な飢饉状況の描写が、のちに「慰霊目的」説に取り込まれ、結果として「伝承」の強化・完成に寄与することとなった。
「水神祭」の登場(大正時代)
1923(大正12)年、その年の川開きを報じる新聞記事において、「水神祭」という語が初めて登場する。
享保時代水神の祭に旧五月廿八日の夜を涼みがてらの余興として鍵屋弥兵衛が一発ポーンと揚げ〔た。〕
— 読売新聞1923(大正12)年より抜粋
この記事では、飢饉による死者の慰霊のために云々という「慰霊目的」説は登場せず、花火は水神祭の「余興」という位置づけになっている。大正時代になっても、まだ「伝承」は完成していなかったのである。
「伝承」の確定(昭和初期)
あやふやだった花火大会の起源に関する「伝承」が確定し、流布していく画期が、1934(昭和9)年に訪れる。この年に刊行された公式プログラム『両国川開大花火番組』に「川開きと花火の沿革」という論考が掲載されたのである。
顧みますれば、今から二百余年前、享保十七年、八代将軍吉宗の時、前年の豊作に引かへて大飢饉が襲来し、米価頻りに騰貴して、山陽、西海、四国が尤も甚だしく、民の餓死するものが九十六万余人に達したといはれ、且つ江戸においてはコロリ病(現今のコレラ)が流行し、死者は路傍に打棄てられる有様であつたので、時の政府は、その慰霊且つ悪疫退散のため、両国川下に水神祭を催して死者の追善供養を行ひました。翌十八年、前年の水神祭、川施餓鬼に因んで、矢張り五月二十八日に川開きを行ひ、八月二十八日に至る三ケ月の間は、数限りもない屋形船、屋根船、伝馬、猪牙船などの納涼船が山谷、橋場、遠くは白鬚、水神のあたりから、一方深川辰巳花街から大川尻まで『吹けよ川風上れよ簾』とゆるゆると涼を追ふて明け易い夏の夜を、更くるまで水に親しみ、東都歳時記にも『今夜より花火をともす』とあるのを見ますから、五月二十八日の川開き以後、毎夜のやうに色々な趣向を凝らして大小の花火や仕掛花火を打あげたものであります。
— 三宅狐軒「川開きと花火の沿革」より抜粋
三宅は、先に引用した若月紫蘭の『東京年中行事』の記述を下敷きにしつつ、(1)コレラの流行、(2)慰霊と悪疫退散という目的、(3)時の政府(江戸幕府)による実施、(4)水神祭と川施餓鬼という4点を付け加えた。これまでばらばらだった断片がまとめあげられ、ここに「伝承」が完成したのである。
三宅は、日本料理に関する著書を何冊も出し、俳句も嗜む文化人であった。そのような人物が、主催者の公式プログラムに、享保の大飢饉の説得的な根拠を示して花火大会の起源を論じたため、これが「定説」として定着していく。木村荘八(画家、風俗史家)、朝倉治彦(江戸研究者)、『墨田区史』などがこれに追随し、流布されていったのである。
この言説は、「民を慈愛する名君、徳川吉宗」というイメージと、「死者の魂を鎮め、災厄を川に流す」という民俗的な死生観などが合わさって、「民俗学的によく出来た」話になっていたことから、受容が進んだと考えられる。
以上のように、隅田川花火大会の起源については、1891(明治24)年から1934(昭和9)年までの40年ほどの間に、花火業者の広告目的から慰霊と悪病退散のためへと趣旨がすり替わり、かつ、明暦以前開始説や天和2年開始説もあった中で、享保18年開始説が根拠もなく採用され、広まっていった。こうして、「伝承」という名の作り話が定着したのである。
鍵屋と玉屋
打ち上げは最初期は鍵屋が担当した。歴史は鍵屋のほうが古く、江戸での創業は1659年。7代目鍵屋の番頭(玉屋清吉、のちの玉屋市兵衛)が暖簾分けで、1808年に玉屋を創業し、2業者体制となり、双方が腕を競いあっていた。
鍵屋と玉屋は異なる打ち揚げ場所から交互に花火を揚げたため、観客は双方の花火が上がったところで、良いと感じた業者の名を呼んだ。これが、花火見物でおなじみの「たまやー」「かぎやー」の掛け声の由来といわれる。当時評判がよかったのは玉屋のほうで、「玉やだと又またぬかすわと鍵や云ひ」と川柳にあるように、玉屋の掛け声ばかりで鍵屋の名を呼ぶものがいない、といわれた時代もある。ただし、玉屋は幕末期(1843年)に失火事故を起こし、半丁ほどの町並みを焼失させた罪で、江戸処払い(追放)を命じられ、1代限りで断絶した。ただし、その後も江戸のすぐ近くで細々と営業していたという説もある。一方の鍵屋は、日本最古の花火会社「株式会社宗家花火鍵屋」として現存している。因みに、それまで難しい技術とされていた、同心円状に飛散する花火を明治期に及させたのが鍵屋である。
花火の起源
日本で最初に花火を観賞した人物は、一般的には徳川家康と言われている。江戸時代に書かれた「駿府政事録」などに、1613年、イギリス国王使節ジョン・セーリスが駿府城を訪れた際、中国人を使って、家康に花火を見せたという記述が残されている。この時の花火は現在の打ち上げ花火とは異なり、竹筒から火の粉が噴き出す単純なものであった。これを機に家康が三河の砲術隊に命じて、観賞用の花火を作らせるようになったのが、日本における花火の起源とされる。
中断、復活、その後
両国川開きの花火は、明治維新や第二次世界大戦などにより数度中断した。1961年から1977年まで、交通事情の悪化や、隅田川の水質汚濁による臭害等により中断するが、1978年に現在の「隅田川花火大会」に名称を変えて復活し、以後毎年続けられている。
毎年100万人近い人出が見込まれるこの大会は、桜橋下流から言問橋上流までの第1会場と、駒形橋下流から厩橋上流の第2会場合計で2万発以上の花火が打ち上がり、同時に、花火コンクールが行われる。
なお、3年に一度7月に参議院議員選挙が行われるため、その年の開催日(土曜日)の翌日が選挙投票日にあたる場合、開催日が雨天や強風の場合の順延はなし(事実上中止)となる。東京都知事選挙が実施された2016年も同様である。これは投票所が花火大会会場内にあるため、安全上の理由によるものである。
2000年(第23回大会)は、九州・沖縄サミットが開催された影響により、8月開催に延期された。なお、浅草サンバカーニバルは同年9月9日に開催された。
2011年(第34回大会)は東日本大震災の影響で都内の花火大会が次々と中止を決める中、東京都副知事猪瀬直樹が8月27日に日程を変更して開催することを表明した。この開催延期の影響に伴い、浅草サンバカーニバルの開催が中止となる事態が発生した。
2013年(第36回大会)は、雨天および強風により大雨・洪水警報と雷注意報が発表され、開始30分足らずの19時40分に大会中止が発表され、途中打ち切りとなりコンクールも競技不成立となったが順延は行われなかった。1997年(第20回大会)に雨天による延期という例があったが、完全に中止となったのは2013年が初めてである。なお、翌年の2014年(第37回大会)は、雨は降らず予定通り開催され無事に終了した。
2018年(第41回大会)は、当初7月28日に予定されていたが台風12号の接近に伴い、7月29日に延期して開催された。なお、同日は2020年東京オリンピック・パラリンピックを見据えて、本大会の警備に人工知能(AI)が初めて導入された。
2020年(第43回大会)は東京オリンピックの当初日程(7月24日 - 8月9日)と重なることから調整が行われ、例年より2週間前倒しした7月11日に開催予定であったが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行拡大の影響を受け、同年4月10日に中止が決定した。また、2021年(第44回大会)についても延期後の東京オリンピックの日程(7月23日 - 8月8日)を避け、例年より3か月遅れの10月23日に開催予定であったが、同年6月18日、前年同様中止が決定した。
2022年(第45回大会)もCOVID-19の流行収束が見通せないことから同年4月8日に中止が発表され、3年続けての開催中止となった。
地域への影響
本大会の花火の眺望を期待して周辺のマンションを購入する動きも見られる。
2006年には、マンション分譲業者が花火の眺望を売りにして販売したにも関わらず、数年と経たない内に隣接地に別のマンションを建設して花火が見られなくなったとして、住人が業者を提訴した事例もある。東京地裁は、花火の眺望を「いかなる場合にも法的に保護すべき利益とまではいえない」としながらも、「信義則上の配慮義務がある売り主の会社自身が眺望を妨げた特殊な事案」であるとして、業者側に慰謝料の支払いを命じる判決を出している。
主な開催記録
2007年(第30回。7月28日開催)は30周年を記念して、22,000発が打ち上げられた。
2009年(第32回。7月25日開催)は、21,500発が打ち上げられた。東京都が2016年の開催を目指して招致している2016年東京オリンピック構想(夏季オリンピック)にちなみ、五輪やメダルの色をイメージした花火も打ち上げられた。見物客数は前年より4万人多い948,000人(主催者発表)。
2017年(第40回。7月29日開催)は40周年を記念して、22,000発が打ち上げられた。
花火コンクール
両国ゆかりの花火業者7社と、全国花火競技大会などで優秀な成績をおさめた3社の合計10社が、花火の美しさと技を競う。なお、表彰式はコンクール終了後に行われる。
交通など
当日は会場周辺に大規模な交通規制が敷かれる。首都高速6号向島線は夕方から21時ごろまで会場付近の区間(両国JCT - 堤通入口・堀切JCT間)が全面通行止めになり、周辺道路も許可車以外通行止め等の措置が取られる。
東京メトロ銀座線、東武スカイツリーライン等は臨時列車が運行され、都営浅草線は臨時増発の他、京成押上線方面のエアポート快特は東日本橋駅で京成押上線内の種別に変更する(東日本橋駅 - 押上駅間は各駅停車、浅草橋駅・蔵前駅・本所吾妻橋駅にも停車)。
なお、歩行者が会場周辺の隅田川の橋を渡る際は、混雑防止の観点から橋上は立ち止まり禁止かつ一方通行の措置がとられる。
2002年頃には、大会当日の夜間(21時頃)の常磐線中距離列車(中電・普通列車)が、当時は通過していた三河島駅や南千住駅に臨時停車したこともあった。
モラル
近年、観覧モラルの低下が著しく、観覧会場及びその周辺道路には場所取りと称して粘着テープを貼り付ける行為が多く見受けられる。この行為は、交通規制前の大通り(水戸街道・清澄通りなど)でも堂々と行われており、許可なき道路の占有や汚損を禁じた道路交通法に違反する行為であると同時に、交通事故の原因となる危険な行為である。
両国花火資料館
隅田川花火大会と前身の両国川開きを中心とする花火大会に関する資料や、花火の模型などが展示されている。一般社団法人墨田区観光協会による運営。
テレビ放送
1978年の第1回より毎年テレビ東京が独占中継している。1983年は両国川開き250周年を記念してテレビ大阪とテレビ愛知にも同時ネットされ、この年はゲストとして内海桂子・好江をはじめ原田知世は自身の映画初主演となる『時をかける少女』の宣伝も兼ねて出演した。遅くとも「土曜スペシャル」の放送開始以降はローカル枠で、原則関東ローカルでの放送(TXN系列各局は別編成)であることも珍しくないが、2012年以降はテレビ愛知へもネットされることがあるまた、稀に東海・近畿地区の独立局(岐阜放送・びわ湖放送・奈良テレビ・テレビ和歌山)へもネットされることがある。ハイビジョン制作。
テレビ東京は大会の再開へ積極的に協力した経緯から、現在に至るまでテレビ東京の独占中継が認められている。放送開始当初にはNHK首都圏放送センターが「都の半公共的行事を一放送局が独占するのはおかしい」と実行委員会に抗議を申し入れたという。
メイン司会は第1回は宮田輝。その後、関口宏、みのもんた、梅宮辰夫などが担当。1990年代後半は小倉智昭が担当し、近年は俳優の高橋英樹とテレビ東京の女性アナウンサーが担当している。ほか、会場各所にゲストが出演、さらにレポーターとして審査会場、ヘリ等に3名ほど配置している。また、テレビ東京の人気番組とのタイアップも兼ねている。会場周辺に本社があるアサヒビールがメインスポンサーとなっており、「アサヒビール スペシャル」として放送される。
動画・見逃し配信の視聴はお早めに!
動画配信は、一生行われているわけではありません。
それはどんなサービスでも同じです。
こんな風に悠長に構えていると、あっという間に動画配信はなくなってしまったりします。
観たい!!と思った今、配信されているうちに是非動画を楽しんでくださいね。