「堂本光一」は、日本のアイドル、シンガーソングライター、俳優、タレントであり、男性アイドルデュオ・KinKi Kidsのメンバー。本名同じ。
兵庫県芦屋市出身。ジャニーズ事務所所属。身長168cm。血液型はB型。
相方の堂本剛と同姓だが、血縁関係はない。
生い立ち
1979年、堂本家の長男として誕生。体重2900gで、逆子であった。名前の由来は、「"なんでもいちばんになれるように"という願いを込めた。」「父親の一字をもらった」「1月1日の朝6時頃産まれたから、光る一番で」などいろいろあるらしく、本人もはっきりとわかっていない。3つ上に姉がいる。
出生当時の自宅は長野県松本市だったが、間もなく父親に転勤の辞令が出て千葉県に引っ越す。1982年、千葉県船橋市にある西船幼稚園に入園するが、すぐに再び転勤で兵庫の社宅に引っ越したため、芦屋市立朝日ヶ丘幼稚園に転入。1985年、芦屋市立朝日ヶ丘小学校に入学し、1991年、芦屋市立山手中学校に進んだ。芸能生活も多忙になってきた1994年、高校に入学。単位制・通信制の学校で5年かかったが無事に卒業。卒業式の日は仕事だったため別の日に校長室で1人で卒業式が行われた。
ジャニーズ事務所入所
小学校6年生の時、少年隊ファンの姉が勝手に郵送した履歴書がジャニーズ事務所の社長ジャニー喜多川の目にとまり、直接電話で当時大阪で行われていた光GENJIのコンサートに招待される。それまでも姉の影響で『PLAYZONE'89 Again』や『PLAYZONE'90 MASK』などのミュージカルは観ていたものの、本人は特に興味がなかった。しかしこのコンサートを観ているうちに「かっこええな、やってみようかな」と思い始め、12歳の時に再び光GENJIのコンサートを横浜アリーナで鑑賞したその場で事務所入りを決める。母親がこの時、社長にたった一言「よろしくお願いします」と言って頭を下げた姿を忘れられないと本人はインタビューで話している。
その1991年5月5日に横浜アリーナで初めて出会い、同じように事務所入りを決めた堂本剛とともに、平日は中学校に通いながら週末は新幹線で東京にある事務所のレッスンに通う日々をしばらく続ける。中学3年生の時に転校し、上京。今度は合宿所と仕事場の往復となる。ちなみにこの頃合宿所に住んでいたのは剛と長瀬智也、井ノ原快彦とあと1人くらいだったが、同じ仕事と境遇で価値観が合う本当の仲間ができたことが何より嬉しかったという。当時ジャニーズJr.と呼ばれる人間は10人程しかおらず、踊りのレッスンには常に全員が出ているような状況。レッスンはハードであったが、勉強より踊ることがとにかく楽しく、合宿所に帰ってからも鏡の前で何度も復習をした。
光GENJIのコンサートで初舞台を踏み、その後も主に光GENJIやSMAPのバックダンサーとして踊り続けた。当初から同じ苗字であった剛と2人揃って活動することが多く、「W堂本」「KANZAI BOYA(カンサイボーヤ)」などの呼び名を経て1993年4月4日、『キスした?SMAP』にて初めて「KinKi Kids」というグループ名が発表された。
ドラマ・映画
1992年に公開された映画『200X年・翔』で俳優デビュー。テレビドラマ初出演は『ドラマシティー'93「愛よ、眠らないで」』で中居正広が出演する作品であったが、共演のシーンは無かった。
1994年、百数十人が受けたというオーディションで事務所の意向ではなく実力で「影山留加」役を射止め、『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』に出演が決定(剛は「大場誠」役)。愛するがゆえに誠をいじめてしまう役を熱演した。ドラマはその内容から衝撃の問題作と言われるも高視聴率を記録し、2人は一気に全国区となる。その後、同じく当時社会現象となっていた『家なき子』の劇場版とテレビドラマの続編『家なき子2』で両方において主役であった安達祐実の相手役を務め、1996年、『銀狼怪奇ファイル〜二つの頭脳を持つ少年〜』でテレビドラマ初主演。その後も数々の映像作品に出演し、二枚目から三枚目まで様々な役を演じたが、本人は、『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』の頃に世間での認知度が高まったものの、一般の人に「あ、頭の中にハエがいるへんな子」と言われるようになったことが印象深く、ドラマの影響力は大きいと感じたと話している。
2002年、『リモート』の氷室光三郎役で第35回ザテレビジョンドラマアカデミー賞助演男優賞&第6回日刊スポーツ・ドラマグランプリ助演男優賞を受賞。2008年、『銀幕版 スシ王子! 〜ニューヨークへ行く〜』で映画単独初主演を果たし、この時は役名の米寿司名義で主題歌も担当した。
バラエティ番組・司会
先輩の番組のアシスタントとしてのバラエティ出演を経てKinKi Kidsとしてメインで出演&司会を務めるが、1999年あたりから番組やイベントなどで次第に単独で司会を務めることが多くなる。音楽、討論、教育、F-1などジャンルは様々。タッキー&翼のCDデビュー特番『徹子&光一の生部屋』(2002年9月11日放送)の司会も黒柳徹子と務めた。また、『堂本兄弟』やジャニーズカウントダウンライブなど、KinKi Kidsとして司会を務めている時でも、実質進行役となりトークを回す役目は光一が担うことが多い。「普段はベラベラとしゃべるタイプではなく人の目を見て話すのも苦手だが、"司会"という役割を与えられるとそれが普通にできる」「剛は話を広げるのは上手だがまとめるのは苦手」などそれぞれの特性を生かした結果、自然にこの形に落ち着いた。『LOVE LOVEあいしてる』から『堂本兄弟』に変わった時も、今までと逆に剛を進行役にしようと試みたが、お互い居心地が悪くて戻したという経緯がある。
あまり話すのが得意でないゲストなら自分が率先してくだけて空気を緩め、芸人がゲストなら独自の笑いの世界を壊さないためにあまり立ち入らないようにするなど、臨機応変に自分の立ち位置を変えるという司会スタイルをとる。また、『LOVE LOVEあいしてる』や『堂本兄弟』などで長く付き合いのあるきくち伸プロデューサーは、「光一はプロデューサーとして特化してきた」「収録後に"この座り位置だとゲストが話しにくい"など意見してくれたり、彼は出演者というよりは完全にスタッフ」「ゲストを招いての番組のトークでも本番に強いタイプ。しかも努力している姿を見せない…機を織っているところを人には見せないけれど、いつの間にか織り上げている鶴みたいな人」と、番組作りから積極的に関わっていると話している。他にも、『ポップジャム』で仕事をしたNHK芸能番組部チーフディレクターの筒井健は「台本を渡すとこちらが説明する前にサッと目を通し、"ここは、こうやんないとダメなんちゃう?"、"(台本で抜けているたった30秒に対して)ここで僕はなにをやるの?"って、聞いてくる」「ステージングの解釈は、プロ中のプロ」、『ジェネジャン』など討論番組で関わった山口香代プロデューサーも「打ち合わせの段階から自分の意見をしっかり言っている」「うまく発言者を立てながらほかの人に話を振る技量がある」と話すなど、スタッフの間でも高く評価されている。
日本テレビ系バラエティー『Gyu!と抱きしめたい!』『KinKi KidsのGyu!』『ピカイチ』の3番組内で続けて放送されていた「資格ゲッター☆ピカイチ」というコーナーでは毎回様々な資格の取得に挑戦し、最終的には20種類もの資格を取得した。取得後全ては管理しきれず期限切れや失効したものも多数あるが、1級小型船舶操縦士とこのコーナーを始めるきっかけで目標でもあった国内A級ライセンスに関しては意識して更新を続けている。
舞台
事務所に入所しようと思ったきっかけの大きなものとして実はミュージカルへの憧れがあり、15歳の時、『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら〜』のビデオ特典インタビューで将来の夢を聞かれた時には、「歌も踊りも芝居も全て入っているミュージカルをやりたい」と答えていた。1993年、SMAPの舞台『ANOTHER』で舞台デビュー。1997年『kyotokyo』を経て、1999年『MASK』で初主演。
2000年、『MILLENNIUM SHOCK』で帝国劇場最年少座長(当時21歳)に抜擢され、東山紀之、赤坂晃(元光GENJI)、今井翼(当時ジャニーズJr.)ら歌と踊りに秀でたカルテット("ジャニーズ四天王"や"アンダルシアユニット"とも呼ばれた)とカンパニーで1か月38公演に挑み、無事に成功させる。チケット約7万枚に対し、抽選方式では80万通の応募が殺到、対面方式で販売されたものは15分で即時完売、競争率は11.4倍を記録した。また、海外メディアを含め取材陣は70社200人を超えるなど注目度も高く、帝国劇場89年の歴史上初めてづくしの結果となった。帝国劇場は2011年には1年のうち7か月をジャニーズ事務所所属タレントの舞台が占めることもあるくらい関わりが深い劇場となったが、2000年の当初は由緒正しい劇場ということでジャニーズ事務所の進出には実は厳しい意見もとても多かったと光一は当時を振り返っている。しかしこの反響の大きさに是非シリーズ化してほしいという東宝側からの申し入れがあり、これ以降『SHOCK』シリーズは光一主演で毎年続いていくことになる。
2004年の『Shocking SHOCK』を終えた後、「もっとストーリーを重視した作品に進化させたい」と光一が提案し、ジャニー喜多川からも「光一の思うSHOCKというものを作ってみてもいいんじゃない?」とGOサインが出たため、一から台本が作り直され大幅にストーリーや構成が変更される。名前も『Endless SHOCK』へと変わり、光一が脚本・演出・音楽全てにおいて全面参加、2005年より新生SHOCKがスタートした。2008年4月、その『Endless SHOCK』が第33回菊田一夫演劇大賞を受賞。高い舞台成果に対しスタッフ・出演者一同に贈られたものだったが、会見で光一は「全員の力でいただくことが出来た。とにかくひとつになることを大切にしてきた。スタッフ、キャストが一つになって作り上げてきたこの舞台で、このような賞がいただけて本当に嬉しい。」と語った。2011年3月1日、帝国劇場が100周年を迎えた日も『Endless SHOCK』が公演中であった。記念すべき日にステージに立っていることについて「本当に『SHOCK』で良かったんですかね?」と恐縮しながらも「人生の3分の1を帝劇に関わらせていただいて、人格を形成してくれた場所といっても過言ではない。本当におめでとうございます」と祝福の言葉を述べた。2013年3月21日、『SHOCK』シリーズは公演回数1000回を達成。初演から12年5か月での達成で、同一演目に単独主演の舞台としては国内演劇史上最速となる。
長いSHOCKの歴史の中では、様々な怪我やトラブルも経験している。シリーズの初演となる2000年の『MILLENNIUM SHOCK』の公演中に太股の筋肉断裂、2002年6月『ショー劇・SHOCK』の初日には右足首の靭帯損傷という怪我を負った。両公演ともサポーターや添え木をして1か月の公演を演じ終えたが、「足を運んで下さったお客様とスタッフ、キャストへの申し訳ない思いと、動けない自分への悔しさと、全力で届けなければならないという思いで一杯だった」という気持ちから、「自分の不注意から怪我をして、全力のショーをお見せできず、申し訳ありません」と初日のカーテンコールで涙を流した。後のインタビューで「怪我をしてしまった日に東宝さんから“足を怪我していても他に魅せ方はいくらでもあると思いますよ。”と言われたことが救われたし、力になった」と語っている。当時は明かしていなかったが、2004年2月、リハーサル中フライングの着地に失敗し頭から落ちて1週間程入院し、その間病院から帝劇に通ったり、2006年には急性胃腸炎を患いながらステージに立ったこともある。これらのこともあり、今では公演中、験担ぎではないがもし舞台で何か起こった時に自分に逃げ場を作らないため、公演開始前の起床→劇場入り→食事→ストレッチ&ウォーミングアップ→お風呂→メイクアップ→ステージに立つというルーティーン作業を決して崩さないようにしている。ちなみに2008年に舞台機構の故障による中止→振替、2011年の東日本大震災による中止、2015年の可動式LEDパネル負傷事故による中止は経験したものの、自らの体調不良や怪我を理由に公演を中止にしたことは一度も無い。
シリーズを貫く不変のテーマとして"Show Must Go On"(何があってもショーは続けなければならない)の精神があり、これはジャニーズ事務所の携帯サイト「Johnny's web」での光一の連載のタイトルにもなっている。
『SHOCK』シリーズは2000年の初演から2019年まで20年連続で毎年上演され、いまや光一のライフワークとなっている。初演から15年を超えてもチケットが前売り開始日に即日完売する盛況ぶりは「日本一チケットが取りにくい舞台」としても名高い。天井の高さやセリ、ステージ幅の問題などから長く帝国劇場でしか上演されてこなかったが、劇場を改修したうえで2012年に福岡の博多座で初の地方公演を実現させ、2013年には地元関西の梅田芸術劇場にも進出した。2022年5月31日の帝国劇場でシリーズ通算1900回公演を達成。
音楽
幼少期は母親の影響によりTOTOやエリック・クラプトン、イーグルスなど洋楽を多く聴いており、大人になってからも好きなアーティストにはBon Joviらを挙げている。初めて買ったCDは小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」で、『LOVE LOVEあいしてる』のスペシャルで小田がゲスト出演した時にはセッションが実現した。その他、お気に入りの楽曲としてよく挙げているのは串田アキラの「宇宙刑事ギャバン」。
『LOVE LOVEあいしてる』で吉田拓郎をはじめとした一流ミュージシャン達と出会い、ギターを教えてもらう。そして番組内で吉田拓郎に促されて初めて作詞・作曲し、「MY WISH」という楽曲を作った。この曲を吉田拓郎に初めて見せた時、決して否定することなく「よく作ったね」と言ってもらえたため、「自分にも曲が作れるんだ」「面白い、もっと勉強しよう」と思ったことが忘れられないという。そしてこの当時の出来事が、今まで作詞作曲を続けてこられたきっかけになっていると本人は振り返っている。ちなみにこの処女作を初めてデモテープで聴いた時、番組プロデューサーであるきくち伸は「いきなりハイレベル…まるで職業作曲家さんの仕事じゃないか!」と当時ものすごく衝撃を受けたと話している。
これ以降も作詞作曲を続け、楽曲はKinKi Kidsのシングルやアルバム、舞台のサウンドトラックに収録される。2002年には「堂本光一が作詞作曲した」という先入観なく楽曲を聴いてほしいという思いから、「K.Dino」というペンネームを使って素性を明かさないままKinKi Kidsのシングル『solitude 〜真実のサヨナラ〜』を発表した。
2001年、イベント「お台場どっと混む!」のために結成されたジャニーズJr.期間限定ユニット☆☆I★N★G★進行形に「LOVE together」を作詞したのを始めとし、後輩への楽曲提供やプロデュースも手掛けるようになる。日本テレビ系バラエティー『ジャパン☆ウォーカー』内のコーナー「光一計画」ではJ-Support (K.K.Kity) に「Private Hearts」を、滝沢秀明の舞台『DREAM BOY』にも同名の楽曲を書き下ろした。その他、NHK BS2の音楽番組『ザ少年倶楽部』の2002年10月からのエンディング曲「LOVE&DREAM」(作曲)など。なお、2002年にKAT-TUNが歌番組やコンサートでオリジナル曲として披露した「Change」は元々光一が自ら1999年のKinKi Kids冬のコンサートで披露していたものである。
堂本剛が2002年にすでにソロデビューを果たしていたこともあり、早くから光一にもソロデビューをと望む声があったが、本人は「いずれ出さなアカンかな」というくらいの考えだった。しかし主人公・トール(青年期)役でフジテレビ系アニメ『獣王星』で声優に初挑戦することが決まり、自身が作曲した「Deep in your heart」が主題歌に決まると、これは形にしなければと2006年7月12日、両A面シングル『Deep in your heart/+MILLION but -LOVE』としてリリースが決定。27歳にしてようやくソロCDデビューを果たし、初週22.1万枚を売り上げ、オリコンウィークリーランキングで第1位を記録した。
マイナーコードの曲を好み、自身で作るのもマイナーコードのものが多い。作曲ではメロディの力を借りて人の感情を動かす音楽を作りたいという思いが強い。曲作りは締切に追われることが多く、ストックはしないタイプ。また、作詞作曲両方をする時は基本的に曲を先に作ってから詞をつける。しかしながらソロデビューをした2006年あたりから「自分の曲に作詞家の人がどういう詞をつけてくるのかが楽しみだから」「世の中に詞だけを全部書く人はいっぱいいるが逆は聞いたことがない」「作詞の才能がないと思うし、詞を書いていてもあまり楽しくない、苦手」「自分語りが苦手で"俺はこういう人間です"と言葉で語りたい欲求がない」などの理由で作詞活動からは遠のき、作曲のみに専念。ソロシングル・アルバムではほぼ全ての楽曲を作曲のみ担当している。そして2010年の雑誌のインタビューでの「今後(詞を)書く機会があるかどうかはわからないが、基本的にはもう書かない」という発言通り、同年に発売された『Family 〜ひとつになること』に収録されている「Tears」(作詞:堂本光一、作曲:堂本剛)以降、作詞をした楽曲は発表されていない。
ソロでのCD、グループでのCDともに、コーラスの歌入れ・ミックス・トラックダウンなどを自ら担当し、制作&レコーディング期間中はスタッフと毎日朝まで話し合いながら作ることが多い。音楽評論家の麻生香太郎は、「そんなアイドルは聞いたことがない。もはや光一は、作品の出口管理までしないと気が済まないプロデューサー型人間になっている」と述べている。
ソロコンサート・演出・映像編集
デビュー前から歌番組やKinKi Kidsのコンサートでソロを披露する時はダンスナンバーがほとんどであった。近藤真彦の楽曲で、東山紀之が踊ってきたソロナンバー「アンダルシアに憧れて」を引き継ぎ、KinKi Kids合作曲「愛のかたまり」にもソロで披露する時には踊りをつけた。『ポップジャム』では司会でありながら、2001年9月1日の放送からは「堂本光一SUPER STAGE」というコーナーが設けられ、マイケル・ジャクソンの「LITTLE SUSIE」「2 BAD」やStray Catsの「ROCK THIS TOWN」など毎週のようにダンスで披露した。
初ソロコンサートはソロCDデビューよりも早く、2004年の春。2年越しの構想の末、構成や演出全てを光一自身が手掛けて実現した。それまでの集大成的な内容で、エンターテイナーの光一らしい“魅せるステージ”となったが、「1/2」というタイトルに込めた"KinKi Kidsは2人"という意味の通り、KinKi Kidsや剛の楽曲を披露したり、自らが頼んで剛に書いてもらった『大丈夫』というタイトルの数行にわたるメッセージをモニターに流したりと、まだグループのうちの1人であることを意識した内容であった。しかし2006年に行われた2回目のソロツアーではKinKi Kidsの曲は封印され、1stソロアルバム『mirror』の楽曲を中心に、披露された19曲のうち18曲が自身が作曲した楽曲で構成されるという完全な堂本光一ソロワールドで展開された。以降のツアーも全て光一自身が構成・演出・総合プロデュースを担当し、ダンスや照明を含めたすべての細かい打ち合わせから携わっている。ジャニーズ事務所にはコンサートの構成を考える専門のスタッフが存在しないため、「15歳の頃から自分で考えるのが普通だったし、みんなそうしてきた」「逆に、自分の音楽性を自分より理解している人間はいないのに、他人が構成を考えるという感覚が理解できない」と本人は話している。コンサートでは主に、普段は聴こえることのない音や間を目でも楽しんでもらえるように音楽を視覚化することや、9割は自分がやりたいことをやるが残りはファンが喜ぶ演出を入れることなどを心掛け、ダンスが好きな光一らしく、グループの時よりも踊りを重視した構成となっている。ステージの演出では照明が最も重要であるというこだわりをもっており、PIGIやドットイメージなど当時の最新鋭の照明・投影機材を海外から輸入していち早く取り入れている。光による演出が難しく、天候や時間で左右されてしまう屋外の公演はあまり好きではなく、ソロコンサートは一度も野外では行われていない。
MCに関しては当初、剛がいないことで戸惑いを見せたり、苦手だからいっそのこと無くそうかといった趣旨の発言をしていたが、近年はドSな王子キャラ、持ち上げては落とし突き放した挙句に抱き寄せるようなツンデレトーク、憎まれ口や毒舌(ただしフォローは欠かさない)などが定番となり、本編のパフォーマンスとはまた違ったギャップの激しい一面がみられる。
これらをソフト化したコンサートDVDやプロモーションビデオなど、すべての映像作品においても細かく制作や編集に携わっている。ただし、「裏側を見せてもお客さんの反応が変わる必要はないし、(作り手の苦労は)関係ない」「それより出したものを素直に受け取ってほしい」というように元々制作過程や舞台裏を見せるのが好きではなく、「次のステップに進んでいるにもかかわらずまた過去を振り返るのが嫌」という理由で『Document of Endless SHOCK 2012 -明日の舞台へ-』には関わっていない。元々モノ作りに関してはかなりマニアックで、すべてに関して人任せにはせずに、細部までこだわって作らないと気がすまず、そんな姿を自ら「オタクの世界ですね(笑)」と認めている。